秘仏とタレル

松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集「脳と日本人」の中で秘仏について語っている一節がありました。

茂木: 実は、先日、秘仏を見てはじめて分ったことがあるんです。つまり、秘仏は住職一代に一回しか公開されなくて、しかも写真とか絵はないわけですね。秘仏の姿を記憶しておこうと思ったら、自分が覚えておくしかない。グーグルでイメージを検索してもでてこないわけです。しかし、ぼくの中には秘仏のイメージはなんとなくあります。で、それは何かと似ているな、って思ったのです。そして、体験の一回性、とくに宗教的体験の一回性と同じだと気付いたのです。キリストは十字架にかけられて、そのあと復活したと言われてますね。その頃は、カメラのテレビ、デジカメもないので、もしほんとうに起こったとしても、目撃した人の目の前で生起し、消えていってしまうものですね。そういう奇跡を記録しておこうと思ったら、自分が覚えて人に伝えるしか方法がなかったわけです。秘仏もそういうことなのだ、ってわかった瞬間にぼくは非常に感銘を受けたのです
(中略)
松岡:秘仏を見た人が一代に一回だけだとすると、世代の間に断絶が生じますね。それで、その経験を語ろうとするときの語り口が、「そのときは冬でなあ」とか「寒くてなあ」とか、という語りになっていくわけです。(中略) 。そこをさらにとことん様式化すると伊勢神宮の遷宮になるのです。

先日、夏休みを利用して直島に行ってきました。アートと自然と安藤忠雄の建築にあふれる素晴らしい島でした。とくに印象に残ったのがジェームズ・タレルの作品で、その素晴らしさをどう書こうかと苦心していたのだけれど、この一節に使われていた「一回性」という言葉がまさにあの魅力を表しているのではないか、と思ったわけなのです。タレルの手がけたものは地中美術館にあるオープン・フィールドとオープン・スカイ、そして街中に南寺という作品があります。壁を抜けていく感覚、暗闇から形がうかびあっていく感覚、どれも宗教的と言っても過言ではない体験でした。鑑賞する、というよりも、体験する、という表現がふさわしいもので、生まれるとか、体がなくなるとか、そういった根本的な体験にせまるものがありました。そしてそれはどうやっても写真や映像で伝えられない類いのものです。

実は、タレルの作品は以前にも金沢でオープン・スカイを見たことがあって、正直なところ、その時は「ふーん」としか思わなかったのですが、その話を職場のタレルに詳しい某人に話したら「あれは夕暮れをねらっていかないとダメなんだよ」とお叱りをうけました(笑)。でも、確かにそうかもしれないですね。一回性の魅力はコンテキストと強くひもづくわけで「タレルを見た日は〜」と語れられていくことなのでしょう。そう言えば、金沢出身の友人が「あれがいいのは、あそこが無料で、普通に高校生の待ち合わせ場所になったりしてるところなんですよ」みたいなことを言ってましたが、うん、それはすごくよいことかも。

「南寺」 安藤忠雄による木造建築。外からだとどんな体験が待っているのか全く想像がつきませんね