初詣のLegitimacy

初詣は日本古来の伝統ではなく、明治の鉄道普及期に鉄道会社が仕掛けたキャンペーン由来の風習である、という話を年末にラジオで聞いて大変に驚いた。ちなみに江戸時代にあったのは恵方詣でという習慣だったらしい。その話をきくまでは自分も初詣は日本の伝統行事だと思っていたし、それをすることが日本人として正しい行動なのではないか、と思っていた。

かくして、正月に帰省した折、この話を実家でしたら不服そうな反応がかえってきた。大げさに言うと「たとえその説が正しかろうと、初詣は日本の伝統行事であり、初詣をすることは正しい。へんな知恵つけてくるお前がめんどくさいやつだ」とでもいったような、つまり自分の信じているものを否定されたかのようなディフェンシブな反応であった。まあ、なんとなく分からんでもない。

興味深いのは、こういう企業のキャンペーンが年月を経てLegitimateな(正統な)存在になっていく過程である。考えてみると、キャンペーンではないせよ、ある経済的および技術的な理由により一時期に一般化した行為がLegitimacyを獲得していったものはいくらでもある。本は紙で読むもの、ゲームはコンソールでやるもの、映画は映画館で見るもの、新聞はあのサイズの紙をペラッとめくって読むもの、仕事は毎日会社に出勤するもの。音楽は配信よりもCDがいい、なんてのもそれに近い。面白いのは、CDが出たころはレコードに針を落とすことが正統な行為だと思われた、という点だ。つまり、ある種の身体性を伴う行為がそうなりやすいということか。

乱暴な仮説を立てる。身体性の伴うものは本質的にめんどうくさい。神社に足を運んだり、注意深くレコードに針を落としたりしなければならない。その面倒さを乗り越えるために自己正当化として「自分のやっていることは正しいことだ」と思い込む必要があるのではないか。そのため、その「正しさ」を侵害されたと感じる時に我々は過剰にディフェンシブな態度になってしまうのではないだろうか。

どんなもんだろ?

最後にちょろっとUXエンジニアリングっぽい話を。Zibaの濱口さんがUSBメモリのコンセプトを考える時に「身体性」に着目した、という話を聞いたことがある。データを受け渡す行為をオンラインで行えるようになってきたからこそ、タンジブルな形で持ち運ぶ・渡すという身体性をデザインした。そして、そのアイデアは当初は誰にも賛同されなかったにも関わらず爆発的に普及した、というようなストーリーだった。

果たして、我々が足りないと潜在的に思っている身体性はなんだろう?逆に、本来の用途を超えて、正統化してしまっている身体性はなんだろう?前者はビジネスチャンスであり、後者はリスクである。