書籍「メンタルモデル ユーザーへの共感から生まれるUXデザイン戦略」

翻訳に関わらせていただいた書籍「メンタルモデル – ユーザーへの共感から生まれるUXデザイン戦略」が発売になりました

この本は、著者のインディ・ヤングさんが考案した「メンタルモデル」とよばれるタワー型のダイアグラムを作成することにより、ユーザーの行動にある動機や価値観を整理し、それに合わせて既存のプロダクト・サービスのチューニングや新規サービスの発想しようというものです。具体的なプロダクト・サービスのデザインではなく、その一歩手前で使うダイアグラムがゴールとなります。ユーザーに共感し、その行動を根本から理解できればプロダクト・サービスの方向性にブレがなくなる。そして、可視化されたダイアグラムは将来にわたってサービス開発のベースとして長く使えるものである、というコンセプトに基づいています。

Rosenfeld社のシリーズの特徴でもあるのですが、この本も非常に実務的に書かれており、ダイアグラムに至る過程としてのユーザーインタビューやそこからの具体的なユーザーの行動要素への落とし込み、そしてそのとりまとめのノウハウが細やかに書かれています。「メンタルモデル」というタイトルから認知心理学的な読み物を想像されるかもしれませんが、この本は具体的にビジネスに活かすための手法の本と言えるでしょう。ぜひ読んでいただければと思います。

初詣のLegitimacy

初詣は日本古来の伝統ではなく、明治の鉄道普及期に鉄道会社が仕掛けたキャンペーン由来の風習である、という話を年末にラジオで聞いて大変に驚いた。ちなみに江戸時代にあったのは恵方詣でという習慣だったらしい。その話をきくまでは自分も初詣は日本の伝統行事だと思っていたし、それをすることが日本人として正しい行動なのではないか、と思っていた。

かくして、正月に帰省した折、この話を実家でしたら不服そうな反応がかえってきた。大げさに言うと「たとえその説が正しかろうと、初詣は日本の伝統行事であり、初詣をすることは正しい。へんな知恵つけてくるお前がめんどくさいやつだ」とでもいったような、つまり自分の信じているものを否定されたかのようなディフェンシブな反応であった。まあ、なんとなく分からんでもない。

興味深いのは、こういう企業のキャンペーンが年月を経てLegitimateな(正統な)存在になっていく過程である。考えてみると、キャンペーンではないせよ、ある経済的および技術的な理由により一時期に一般化した行為がLegitimacyを獲得していったものはいくらでもある。本は紙で読むもの、ゲームはコンソールでやるもの、映画は映画館で見るもの、新聞はあのサイズの紙をペラッとめくって読むもの、仕事は毎日会社に出勤するもの。音楽は配信よりもCDがいい、なんてのもそれに近い。面白いのは、CDが出たころはレコードに針を落とすことが正統な行為だと思われた、という点だ。つまり、ある種の身体性を伴う行為がそうなりやすいということか。

乱暴な仮説を立てる。身体性の伴うものは本質的にめんどうくさい。神社に足を運んだり、注意深くレコードに針を落としたりしなければならない。その面倒さを乗り越えるために自己正当化として「自分のやっていることは正しいことだ」と思い込む必要があるのではないか。そのため、その「正しさ」を侵害されたと感じる時に我々は過剰にディフェンシブな態度になってしまうのではないだろうか。

どんなもんだろ?

最後にちょろっとUXエンジニアリングっぽい話を。Zibaの濱口さんがUSBメモリのコンセプトを考える時に「身体性」に着目した、という話を聞いたことがある。データを受け渡す行為をオンラインで行えるようになってきたからこそ、タンジブルな形で持ち運ぶ・渡すという身体性をデザインした。そして、そのアイデアは当初は誰にも賛同されなかったにも関わらず爆発的に普及した、というようなストーリーだった。

果たして、我々が足りないと潜在的に思っている身体性はなんだろう?逆に、本来の用途を超えて、正統化してしまっている身体性はなんだろう?前者はビジネスチャンスであり、後者はリスクである。

 

 

D3.jsとOpen Dataその2〜各国の事例〜

この投稿はD3.js Advent Calendar 2013の15日目です。前回担当分はQiitaに書きましたが、今回は実装の紹介というようりも事例紹介なのでブログの方に書きます。というか、自分のブログのことをすっかり忘れていたのですが、同僚に知らぬまにウォッチされていたようなので、たまに書いてみようと思います

今回はD3.jsを実際につかってOpen Dataをビジュアライズしているサイトをいくつか紹介します

1. Not All Neighborhoods Are Created Equal (Boston Edition)

ボストンの地価の分布をビジュアライズしたものです。Max、Minと中央値を表現するグラフにマウスを重ねると該当の地域がハイライトされます

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2. Drought Extends, Crops Wither – The New York Times

干ばつによる作物への影響をビジュアライズしたものです

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3. Health and Wealth of Nations D3 and Cesium Demo

Ceciumという地理情報をWebGLなどを使って描画するライブラリとD3とをあわせて使ったデモ

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4. Gov.UK Overview

Open Dataの本場イギリスから。公開したデータがどのくらい実際につかわれているかをまとめたページ。公開するだけではなく、実際に役にたっているかどうかも追っていること、そしてそれもオープンデータとなっていることがさすがと思わされる

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(ほんとは何かのデータをビジュアライズしたかったのですが、、データ的にも実装的にもまにあわなかった。)

iTunes(v11)の検索窓について

ちょっと微妙なUI設計だと思ったのでメモ

現行のiTunes(11)はライブラリとストアをメニューバー右のボタンで切り替えるようになっている。

ライブリモードの時は検索窓に「ライブラリを検索」と出ている。キーワードをうつとライブラリ内の検索になる。これは問題なし。
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ストアのモードになると文字が消える。この状態で検索するとストアの検索になるのだが、検索対象としてアプリも含まれる。

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ひっかかるのは2点

  • 「iTunes Store」ボタンを押した時に切り替わっているように見えるのは、そのボタンのあるバーより下のコンテンツエリアのみに見える。だがその上の検索窓にも作用している
  • ストアの状態にした時は音楽と映画のストアに見える。しかし検索対象はAppも含まれる。よく見るとストアトップの下の方はアプリの紹介になっているが、アプリはApp Storeという別アプリで扱うものという意識がある。

メディアライブラリとしてのiTunesとiTunes StoreおよびApp Storeのオーガナイズに苦労していると見える。はて、どうするのがよいものか?

iTunesは単なるプレイヤーからはじまったけど、その後ストアがはじまって、売るものにアプリが追加されて、iPhone/iPadのオーガナイザーとしても機能するようになって、という歴史をへているからなかなか一筋縄ではいかない。この記事“A Visual History of iTunes”ではiTunes10までのUIのキャプチャが見れる。

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こう見てみると上部の中央にインジケーターがあって左に再生などのコントロール、右に検索窓というのがシグネチャーのようだ。多分、現在においてはストアのコンテキストとライブラリプレイーヤーとしてのコンテキストでは、その部分に必要な要素は別なのかもしれない。となるとコントロールよりもコンテキストの切り替えが先に置かれるべきなのかもしれない。ただ、ユーザーが親しんだUIであるので、そう簡単には変えにくい。さてさて。

このへんを考えているとHow Buildings Learnを思い出す。

本でなければならないのなら

昨日、代官山の蔦屋書店に行ってきた。噂には聞いていたけれど、実際に行ってみると想像以上だった。3棟を使った広い店内が本の森を歩きまわる楽しさに溢れていた。

本には、本でなければならない本がある。紙を綴じた本というパッケージは、例えば音楽とそのパッケージとしてのCDという組み合わせに較べて、パッケージ側にも大きな自由度があると言える。コンテンツとしてのテクストだけだなく、本の形、厚さ、重さ、紙質、フォントひとつからして雄弁にメッセージを伝える役割を担う。例えば、ざらっとした布のような手触りの装丁だったり、逆にプラスチックのような白い表紙だったり、そういったひとつひとつのパーツの魅力は写真にはなかなか映らない。なので、アマゾンでは買わないような多くの本に現実世界の本屋さんに行くと出会うことができ、そしてついつい買いすぎることとなる。本というものは、手に取って、表紙を開いて、中をパラパラと指でめくってはじめて、その体験の一部をかいまみることができるものなのだ。

もちろん僕もKindleはヘビーユーザーで、本当に素晴らしいデバイスだと思っているのだけれど、何冊かを同時に読んでいると、同じフォントで同じe-inkの紙質なので、うまく頭が切り替わらないときがある。単なる文字しかないペーパーバッグだとしても、表紙の印象、手に持った時の重さ、日が経つにつれて変色する紙の色などが頭のモードのスイッチになっていたのだなと気付かされる。同様に、CDをプレイヤーにセットする、ターンテーブルに針を置く等にも同じような効果があるとは思うのだけれど、音として味わうのは同じスピーカーで再現された波形である。なので実際の体験中の違いはかなり少ないと言える。

そういった意味では音楽というのはパッケージ効率が高いコンテンツだったのかもしれない。CDやレコードは純粋にロジスティックとしての機能が最も重要だったのだろう。この点はちょっと面白い。なぜなら、単なるテクストだけならばパッケージ効率はものすごく高い。波形に較べれば何十分の一くらいのbit数で同じテクストを伝えられるだろう。それが「本」という形式になると全く変わってくる。もともとは単なるロジスティック効率を高めるための本という形式が、単なる原稿の器だけではなく、それ自体に情報量を持つように成ってきているとうことか。

思考実験として考えるならば、例えば読んでいるコンテンツによって重さが変わるデバイス、さらに表面の感触が変わり、経年でフォントがにじむようなリーダーデバイスならば「本」の情報量を伝えられるのだろうか? もちろん、そんなことはないだろう。多分、音楽で言うならばレコードの尺に合わせてビートルズなどが1枚でストーリーを編むコンセプトアルバムを作り出したように、器に合わせてクリエイティブが変化するポイントが来るのだろう。

ウメサオタダオ展/ローマ字とひらかな/Visual Thinking

科学未来館にウメサオタダオ展を見に行く。梅棹忠夫は「知的生産の技術」という本の中で紹介している京大式カードというB6のカードを使った情報整理術で有名である。梅棹忠夫についてはあまり詳しくはなかったのだが、何人かの信頼できるアンテナにひっかかっているようなので追ってみることにした。

ローマ字とひなかな

この本を読んで驚いたのは、もちろん有名なカードによる整理術も興味深かったのだけれど、「ペンからタイプライターへ」という章でローマ字とひらがな(本の中ではひらかな)や新字論についての一節があったところだ。全く知らなかったのだが、この本によると、日本には脱漢字の運動が古くから存在し、ローマ字表記やカナモジ表記、はたまた新しく文字を作ってしまおうと度々試されていたらしい。梅棹忠夫もローマ字タイプライターを使い、まずは全てローマ字で書く事を試し、友人にもローマ字で手紙を送り、賛否両論の反応をうけ、その後、ひらかなタイプライターを使うことに落ちついた、と書いていた。

ウメサオタダオ展では実際にローマ字でタイプした大量のカードが展示してあった

『ローマ字を使うとなるたけ耳で聞いてわかることばを使うようになる。その結果、わたしの文章は文体からしてすっかり変わってしまうことになった』(知的生産の技術 P.129)

梅棹忠夫は65歳の時に失明し、その後は口述筆記で著作をつづけることになる。もしかすると、この時の経験がその後の創作活動につながったのかもしれない。

ところで、漢字を捨てて表音文字を標準にしたというと韓国があげられる。ハングルは表音文字であり、漢字は人名などでは残っているものの、ほとんど使われなくなってきているそうだ。その事を是非については語るつもりはないが、日本においても同様の試みが行われていたことを知って大きく驚いた。

Visual Thinking

展示では梅棹がアイデアを組み立てる時につったという「こざね法」という小さいカード(京大カードよりも小さい)にキーワードを書いて、それを組み立ててシーケンスを作って行くやり方も紹介していた。

案内の人に「梅棹さんというとカードによる情報整理が有名ですが、失明後はどうやっていたのですか?」と聞いてみたところ「この『こざね法』を長く使っていたので、頭の中でビジュアル的に並べ替える訓練ができていたそうなのです」との答えだった。なるほど。「知的生産の技術」の中でも「カードは忘れるために書く」と述べている。そうやって一度情報を外化すると、別の視点から組みあげることができるようになるのは、KJ法やマインドマップ等を使ったことがあれば納得するところだと思う。それも長く続けて行くと脳の中だけでできるようになるのか、と驚く。なんだか音楽家のようだ。

UX白書の日本語版が公開されました

僕も翻訳に参加させていただいたUX白書(UX Whte Paper /www.allaboutux.org/uxwhitepaper)の日本版が公開されました。

http://site.hcdvalue.org/docs

UXという用語は、ある意味曖昧な用語で、時によってはかなり上位の概念を指したり、UIに近い意味で使われたりと、対象とするものが話し手やコンテキストによってマチマチだったりします。この白書は、その辺をうまく整理してあるよいドキュメントだと感じました。コンパクトなものですので、ぜひ一度目を通させる事をおすすめします。

ちなみにこういうコミュニティでの翻訳はなかなか面白いですね。機会があればまた何か参加したいと思います。HCDValueのみなさん、おつかれさまでした。

Linked Open Data チャレンジデー in 東京

#最近ブログの更新がめっきりないので、近況だけでもまとめておきます。

Linked Open Dataのコンテスト「Linked Open Data チャレンジ 2011」に実行委員として参加しています。その関連で、もう既に先月の話ですが、11月19日にNIIにて開催されたLODチャレンジデーにて講演してきました

セマンティック・ウェブ分野は以前から興味があったのですが、どうもスキーマをえんえんと議論していて何がどうなってるのかよく分からない、と印象がありました。
そのへんの反省(?)もあってか”Linked Data”は、シンプルに、URIによって識別されるデータがあって、それらのつながりをまずは表現していこう、というような思想で進められている気がしています。この分野、僕もまだ勉強中の状態なので、あまり大それたことは言えないのですが、ウェブにある情報が単に人が見るだけでなく、そのつながりをコンピューターで処理することができるようになれば、それによって新しい知見を得ることができるだろうという発想には納得できるものがあります。ちなみにこの分野で進んでいるのはやはりイギリスらしくdata.gov.ukなるサイトで国がもっているデータをどんどん公開して行こうというような流れになっているようです。

個人的に、今回やってみて面白かったのはやはりSPARQLがある程度使えるようになったときでした。dbpediaからある条件にマッチするデータをひっぱてこれるようになった時には「これはちょっとすごいかも」という実感がわきました。

LODチャレンジのページはこちらです
http://lod.sfc.keio.ac.jp/challenge2011/

モチベーション・メーカーのワークショップを見学

3331 Arts Chiyodaで行われたMotivation Maker主催のワークショップを見学してきました。

3331は、知っての通り、廃校となった中学校をリノベーションしてアートやコミュニティなどのために使えるようにしたスペースです。オフィスもいくつか入ってますよね。

僕が見た時やっていたワークショップは「雑誌やチラシのを切り抜いて未来のイメージを作ってみよう」というものをやっていました。この手法、すごく面白いですね。確かに未来のイメージの断片で雑誌やチラシなどの端々に少しづつ表現されているものです。例えば、建築雑誌には未来的な建築物が載っていたり。

大人でも、未来予想をすると、なんにもヒントがない場合はついつい凡庸なSFみたいな案になりがちなのですが、こういうところから着想を得たり、あるいは検証に使ったりすると少し違うかもしれません。あと、ワークとして、ハサミをつかって雑誌を切り取るという身体的な経験が含まれているのがうまいなと感心しました。

切り抜かれた雑誌の山を見ていたら、なんとなくウィリアム・ギブソンの「未来はここにある。ただ均等に分配されていないだけだ。」という言葉を思い出しました。

“The future is here, it’s just not evenly distributed yet.”

発表は各自のグループで行います。特徴的なのは親も参加していて、親の方も真剣に作っていたのが印象的でした。途中から参加したので全体での構成までは分らないのですが、なかなか面白いものを見せてもらいました。考え方のヒントにもなった気がします。

廃校になった学校の再利用である3331という場所でこういうある種オルタナティブな(正規の教育行為とは違った)試みが行われているのは、これからの右肩上がりとは成り得ない世の中のよいあり方を模索するという意味でも有意義だと感じました。

秘仏とタレル

松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集「脳と日本人」の中で秘仏について語っている一節がありました。

茂木: 実は、先日、秘仏を見てはじめて分ったことがあるんです。つまり、秘仏は住職一代に一回しか公開されなくて、しかも写真とか絵はないわけですね。秘仏の姿を記憶しておこうと思ったら、自分が覚えておくしかない。グーグルでイメージを検索してもでてこないわけです。しかし、ぼくの中には秘仏のイメージはなんとなくあります。で、それは何かと似ているな、って思ったのです。そして、体験の一回性、とくに宗教的体験の一回性と同じだと気付いたのです。キリストは十字架にかけられて、そのあと復活したと言われてますね。その頃は、カメラのテレビ、デジカメもないので、もしほんとうに起こったとしても、目撃した人の目の前で生起し、消えていってしまうものですね。そういう奇跡を記録しておこうと思ったら、自分が覚えて人に伝えるしか方法がなかったわけです。秘仏もそういうことなのだ、ってわかった瞬間にぼくは非常に感銘を受けたのです
(中略)
松岡:秘仏を見た人が一代に一回だけだとすると、世代の間に断絶が生じますね。それで、その経験を語ろうとするときの語り口が、「そのときは冬でなあ」とか「寒くてなあ」とか、という語りになっていくわけです。(中略) 。そこをさらにとことん様式化すると伊勢神宮の遷宮になるのです。

先日、夏休みを利用して直島に行ってきました。アートと自然と安藤忠雄の建築にあふれる素晴らしい島でした。とくに印象に残ったのがジェームズ・タレルの作品で、その素晴らしさをどう書こうかと苦心していたのだけれど、この一節に使われていた「一回性」という言葉がまさにあの魅力を表しているのではないか、と思ったわけなのです。タレルの手がけたものは地中美術館にあるオープン・フィールドとオープン・スカイ、そして街中に南寺という作品があります。壁を抜けていく感覚、暗闇から形がうかびあっていく感覚、どれも宗教的と言っても過言ではない体験でした。鑑賞する、というよりも、体験する、という表現がふさわしいもので、生まれるとか、体がなくなるとか、そういった根本的な体験にせまるものがありました。そしてそれはどうやっても写真や映像で伝えられない類いのものです。

実は、タレルの作品は以前にも金沢でオープン・スカイを見たことがあって、正直なところ、その時は「ふーん」としか思わなかったのですが、その話を職場のタレルに詳しい某人に話したら「あれは夕暮れをねらっていかないとダメなんだよ」とお叱りをうけました(笑)。でも、確かにそうかもしれないですね。一回性の魅力はコンテキストと強くひもづくわけで「タレルを見た日は〜」と語れられていくことなのでしょう。そう言えば、金沢出身の友人が「あれがいいのは、あそこが無料で、普通に高校生の待ち合わせ場所になったりしてるところなんですよ」みたいなことを言ってましたが、うん、それはすごくよいことかも。

「南寺」 安藤忠雄による木造建築。外からだとどんな体験が待っているのか全く想像がつきませんね