本でなければならないのなら

昨日、代官山の蔦屋書店に行ってきた。噂には聞いていたけれど、実際に行ってみると想像以上だった。3棟を使った広い店内が本の森を歩きまわる楽しさに溢れていた。

本には、本でなければならない本がある。紙を綴じた本というパッケージは、例えば音楽とそのパッケージとしてのCDという組み合わせに較べて、パッケージ側にも大きな自由度があると言える。コンテンツとしてのテクストだけだなく、本の形、厚さ、重さ、紙質、フォントひとつからして雄弁にメッセージを伝える役割を担う。例えば、ざらっとした布のような手触りの装丁だったり、逆にプラスチックのような白い表紙だったり、そういったひとつひとつのパーツの魅力は写真にはなかなか映らない。なので、アマゾンでは買わないような多くの本に現実世界の本屋さんに行くと出会うことができ、そしてついつい買いすぎることとなる。本というものは、手に取って、表紙を開いて、中をパラパラと指でめくってはじめて、その体験の一部をかいまみることができるものなのだ。

もちろん僕もKindleはヘビーユーザーで、本当に素晴らしいデバイスだと思っているのだけれど、何冊かを同時に読んでいると、同じフォントで同じe-inkの紙質なので、うまく頭が切り替わらないときがある。単なる文字しかないペーパーバッグだとしても、表紙の印象、手に持った時の重さ、日が経つにつれて変色する紙の色などが頭のモードのスイッチになっていたのだなと気付かされる。同様に、CDをプレイヤーにセットする、ターンテーブルに針を置く等にも同じような効果があるとは思うのだけれど、音として味わうのは同じスピーカーで再現された波形である。なので実際の体験中の違いはかなり少ないと言える。

そういった意味では音楽というのはパッケージ効率が高いコンテンツだったのかもしれない。CDやレコードは純粋にロジスティックとしての機能が最も重要だったのだろう。この点はちょっと面白い。なぜなら、単なるテクストだけならばパッケージ効率はものすごく高い。波形に較べれば何十分の一くらいのbit数で同じテクストを伝えられるだろう。それが「本」という形式になると全く変わってくる。もともとは単なるロジスティック効率を高めるための本という形式が、単なる原稿の器だけではなく、それ自体に情報量を持つように成ってきているとうことか。

思考実験として考えるならば、例えば読んでいるコンテンツによって重さが変わるデバイス、さらに表面の感触が変わり、経年でフォントがにじむようなリーダーデバイスならば「本」の情報量を伝えられるのだろうか? もちろん、そんなことはないだろう。多分、音楽で言うならばレコードの尺に合わせてビートルズなどが1枚でストーリーを編むコンセプトアルバムを作り出したように、器に合わせてクリエイティブが変化するポイントが来るのだろう。

ウメサオタダオ展/ローマ字とひらかな/Visual Thinking

科学未来館にウメサオタダオ展を見に行く。梅棹忠夫は「知的生産の技術」という本の中で紹介している京大式カードというB6のカードを使った情報整理術で有名である。梅棹忠夫についてはあまり詳しくはなかったのだが、何人かの信頼できるアンテナにひっかかっているようなので追ってみることにした。

ローマ字とひなかな

この本を読んで驚いたのは、もちろん有名なカードによる整理術も興味深かったのだけれど、「ペンからタイプライターへ」という章でローマ字とひらがな(本の中ではひらかな)や新字論についての一節があったところだ。全く知らなかったのだが、この本によると、日本には脱漢字の運動が古くから存在し、ローマ字表記やカナモジ表記、はたまた新しく文字を作ってしまおうと度々試されていたらしい。梅棹忠夫もローマ字タイプライターを使い、まずは全てローマ字で書く事を試し、友人にもローマ字で手紙を送り、賛否両論の反応をうけ、その後、ひらかなタイプライターを使うことに落ちついた、と書いていた。

ウメサオタダオ展では実際にローマ字でタイプした大量のカードが展示してあった

『ローマ字を使うとなるたけ耳で聞いてわかることばを使うようになる。その結果、わたしの文章は文体からしてすっかり変わってしまうことになった』(知的生産の技術 P.129)

梅棹忠夫は65歳の時に失明し、その後は口述筆記で著作をつづけることになる。もしかすると、この時の経験がその後の創作活動につながったのかもしれない。

ところで、漢字を捨てて表音文字を標準にしたというと韓国があげられる。ハングルは表音文字であり、漢字は人名などでは残っているものの、ほとんど使われなくなってきているそうだ。その事を是非については語るつもりはないが、日本においても同様の試みが行われていたことを知って大きく驚いた。

Visual Thinking

展示では梅棹がアイデアを組み立てる時につったという「こざね法」という小さいカード(京大カードよりも小さい)にキーワードを書いて、それを組み立ててシーケンスを作って行くやり方も紹介していた。

案内の人に「梅棹さんというとカードによる情報整理が有名ですが、失明後はどうやっていたのですか?」と聞いてみたところ「この『こざね法』を長く使っていたので、頭の中でビジュアル的に並べ替える訓練ができていたそうなのです」との答えだった。なるほど。「知的生産の技術」の中でも「カードは忘れるために書く」と述べている。そうやって一度情報を外化すると、別の視点から組みあげることができるようになるのは、KJ法やマインドマップ等を使ったことがあれば納得するところだと思う。それも長く続けて行くと脳の中だけでできるようになるのか、と驚く。なんだか音楽家のようだ。

UX白書の日本語版が公開されました

僕も翻訳に参加させていただいたUX白書(UX Whte Paper /www.allaboutux.org/uxwhitepaper)の日本版が公開されました。

http://site.hcdvalue.org/docs

UXという用語は、ある意味曖昧な用語で、時によってはかなり上位の概念を指したり、UIに近い意味で使われたりと、対象とするものが話し手やコンテキストによってマチマチだったりします。この白書は、その辺をうまく整理してあるよいドキュメントだと感じました。コンパクトなものですので、ぜひ一度目を通させる事をおすすめします。

ちなみにこういうコミュニティでの翻訳はなかなか面白いですね。機会があればまた何か参加したいと思います。HCDValueのみなさん、おつかれさまでした。

Linked Open Data チャレンジデー in 東京

#最近ブログの更新がめっきりないので、近況だけでもまとめておきます。

Linked Open Dataのコンテスト「Linked Open Data チャレンジ 2011」に実行委員として参加しています。その関連で、もう既に先月の話ですが、11月19日にNIIにて開催されたLODチャレンジデーにて講演してきました

セマンティック・ウェブ分野は以前から興味があったのですが、どうもスキーマをえんえんと議論していて何がどうなってるのかよく分からない、と印象がありました。
そのへんの反省(?)もあってか”Linked Data”は、シンプルに、URIによって識別されるデータがあって、それらのつながりをまずは表現していこう、というような思想で進められている気がしています。この分野、僕もまだ勉強中の状態なので、あまり大それたことは言えないのですが、ウェブにある情報が単に人が見るだけでなく、そのつながりをコンピューターで処理することができるようになれば、それによって新しい知見を得ることができるだろうという発想には納得できるものがあります。ちなみにこの分野で進んでいるのはやはりイギリスらしくdata.gov.ukなるサイトで国がもっているデータをどんどん公開して行こうというような流れになっているようです。

個人的に、今回やってみて面白かったのはやはりSPARQLがある程度使えるようになったときでした。dbpediaからある条件にマッチするデータをひっぱてこれるようになった時には「これはちょっとすごいかも」という実感がわきました。

LODチャレンジのページはこちらです
http://lod.sfc.keio.ac.jp/challenge2011/

モチベーション・メーカーのワークショップを見学

3331 Arts Chiyodaで行われたMotivation Maker主催のワークショップを見学してきました。

3331は、知っての通り、廃校となった中学校をリノベーションしてアートやコミュニティなどのために使えるようにしたスペースです。オフィスもいくつか入ってますよね。

僕が見た時やっていたワークショップは「雑誌やチラシのを切り抜いて未来のイメージを作ってみよう」というものをやっていました。この手法、すごく面白いですね。確かに未来のイメージの断片で雑誌やチラシなどの端々に少しづつ表現されているものです。例えば、建築雑誌には未来的な建築物が載っていたり。

大人でも、未来予想をすると、なんにもヒントがない場合はついつい凡庸なSFみたいな案になりがちなのですが、こういうところから着想を得たり、あるいは検証に使ったりすると少し違うかもしれません。あと、ワークとして、ハサミをつかって雑誌を切り取るという身体的な経験が含まれているのがうまいなと感心しました。

切り抜かれた雑誌の山を見ていたら、なんとなくウィリアム・ギブソンの「未来はここにある。ただ均等に分配されていないだけだ。」という言葉を思い出しました。

“The future is here, it’s just not evenly distributed yet.”

発表は各自のグループで行います。特徴的なのは親も参加していて、親の方も真剣に作っていたのが印象的でした。途中から参加したので全体での構成までは分らないのですが、なかなか面白いものを見せてもらいました。考え方のヒントにもなった気がします。

廃校になった学校の再利用である3331という場所でこういうある種オルタナティブな(正規の教育行為とは違った)試みが行われているのは、これからの右肩上がりとは成り得ない世の中のよいあり方を模索するという意味でも有意義だと感じました。

秘仏とタレル

松岡正剛さんと茂木健一郎さんの対談集「脳と日本人」の中で秘仏について語っている一節がありました。

茂木: 実は、先日、秘仏を見てはじめて分ったことがあるんです。つまり、秘仏は住職一代に一回しか公開されなくて、しかも写真とか絵はないわけですね。秘仏の姿を記憶しておこうと思ったら、自分が覚えておくしかない。グーグルでイメージを検索してもでてこないわけです。しかし、ぼくの中には秘仏のイメージはなんとなくあります。で、それは何かと似ているな、って思ったのです。そして、体験の一回性、とくに宗教的体験の一回性と同じだと気付いたのです。キリストは十字架にかけられて、そのあと復活したと言われてますね。その頃は、カメラのテレビ、デジカメもないので、もしほんとうに起こったとしても、目撃した人の目の前で生起し、消えていってしまうものですね。そういう奇跡を記録しておこうと思ったら、自分が覚えて人に伝えるしか方法がなかったわけです。秘仏もそういうことなのだ、ってわかった瞬間にぼくは非常に感銘を受けたのです
(中略)
松岡:秘仏を見た人が一代に一回だけだとすると、世代の間に断絶が生じますね。それで、その経験を語ろうとするときの語り口が、「そのときは冬でなあ」とか「寒くてなあ」とか、という語りになっていくわけです。(中略) 。そこをさらにとことん様式化すると伊勢神宮の遷宮になるのです。

先日、夏休みを利用して直島に行ってきました。アートと自然と安藤忠雄の建築にあふれる素晴らしい島でした。とくに印象に残ったのがジェームズ・タレルの作品で、その素晴らしさをどう書こうかと苦心していたのだけれど、この一節に使われていた「一回性」という言葉がまさにあの魅力を表しているのではないか、と思ったわけなのです。タレルの手がけたものは地中美術館にあるオープン・フィールドとオープン・スカイ、そして街中に南寺という作品があります。壁を抜けていく感覚、暗闇から形がうかびあっていく感覚、どれも宗教的と言っても過言ではない体験でした。鑑賞する、というよりも、体験する、という表現がふさわしいもので、生まれるとか、体がなくなるとか、そういった根本的な体験にせまるものがありました。そしてそれはどうやっても写真や映像で伝えられない類いのものです。

実は、タレルの作品は以前にも金沢でオープン・スカイを見たことがあって、正直なところ、その時は「ふーん」としか思わなかったのですが、その話を職場のタレルに詳しい某人に話したら「あれは夕暮れをねらっていかないとダメなんだよ」とお叱りをうけました(笑)。でも、確かにそうかもしれないですね。一回性の魅力はコンテキストと強くひもづくわけで「タレルを見た日は〜」と語れられていくことなのでしょう。そう言えば、金沢出身の友人が「あれがいいのは、あそこが無料で、普通に高校生の待ち合わせ場所になったりしてるところなんですよ」みたいなことを言ってましたが、うん、それはすごくよいことかも。

「南寺」 安藤忠雄による木造建築。外からだとどんな体験が待っているのか全く想像がつきませんね

山中俊治さんの義足の話

EARTHLING2011というシンポジウムを見てきた。全体を通して非常に充実した一日だった。なかでも山中俊治さんの義足プロジェクトがすごく印象的だったのでメモ

* プロジェクトをはじめた頃は「義足にデザインなんて」と懐疑的な見方をされた。
* 多くの義足は人間の脚に似せようとしている。ただしスポーツ用の義足はそうではない。美しい義足の形とはどういうものか?果たして人間の脚に似せるのが正解なのだろうか、と考えるようになった。
* ある日、グラウンドで義足のアスリートを見ながらスケッチを描いていると、そのアスリートに「絵を描く人なのですか?」と話しかけられた。自分はデザイナーで義足をデザインしたいと思ってスケッチしている、と伝えると「僕も実はこの脚ってかっこいいんじゃないかって思ってたんです。そういう見方をしてくれる人がいて嬉しいです」と言われた。その時にデザインの可能性を感じた。
* 日本には現在8000人の義足の人がいる。多くの人はズボンに隠しているので分らない。逆に、スポーツ用の義足をつけることによってはじめて義足で人前にたつことになる。
* ある女性のアスリートは自分の義足を花の模様で飾っていた。美的側面も求められていると確信した。

そのようにして何枚ものスケッチを描き、何体ものプロトタイプを経て現在のモデルにたどりつくのだそうだ。望まない理由で使うことになった道具が逆にアイデンティティとなっていく人間の強さ、そしてそれを後押しするデザインの力を感じるエピソードだ。

現在は一人一人にあわせて作っているので商業的にはまわらないだろう、と認めていた。ただそれは大量生産を前提にしたものづくりができないことで、それを分った上でやらなければならいと思ってやっている、と言っていた。

最後にモデレーターから「なぜこのプロジェクトをはじめたのですか?」と質問されて山中さんはこんな風に答えていた。「最初は単に好奇心です。でもそれでいいと思うんです。最初は好奇心で、この形って何だろう、と近づいて行くので。それでもやって行くと、後から、人助けになるとか役に立つとかそうものが見えてくるんです」

エビデンスは証拠か?デザインは設計か?

とあるユーザーグループによる翻訳プロジェクトに参加している。


Lost In Translation より (特に本文と関係なし)

翻訳しているのは、UXデザインに関するごく短い文書なのだけれど、それでも、レビューしていると迷うところがチラホラとでてくる。例えば「evidence」。本文中には「実際のユーザーによるevidenceを集めてデザインを評価しましょう」のように出てくる。普通に日本語を当てるならば「証拠」なのだけれど、なんだかしっくりこない。証拠という日本語にはどうしてもネガティブな響き、あるいは説得材料に使うような攻撃的な響きがともなう、ような気がする。最近のビジネスで使われるエビデンスというカタカナにはもうちょっとフラットな、単なる「記録」や「データ」に近い響きを感じる。迷った末に、僕のレビュー担当分では「エビデンス」とカタカナで置いた。ある程度の専門的な読者を想定するならばその方がいいのではないか、という判断だ。最終的にどうなるかは分らないけれどまずはそれで。

そういう意味ではdesignも大変難しい。この場合は逆にカタカナでデザインと書くと逆に意匠に重きをおきすぎているような感じがある。ただ「設計」と訳してしまうと工学によりすぎているような感じがする。UXの議論の場合はどちらも含めたい。どうするべきか?

evidenceの例では今日の打ち合わせで、最初の一回目は「エビデンス(証拠)」と書くのはどうか、という案もでていた。それはなかなかいい手に思える。

パウル・クレー展は7/31(日)まで

すこし前のことになるが東京国立近代美術館にパウル・クレー展を見に行ってきた。

この展示、IA的観点からも面白かった。かなり大量に作品が展示されているのだが、それを単に年代別に並べていくのではなく、技法の観点から整理して空間を壁でゾーンにくぎるようにして展示していた。鉛筆で書いた絵を油彩でトレースするという油彩転写を使ったもの、描いたキャンバスを切断し、回転させたり組み合わせを変えたりしたもの、等々。パウル・クレーという作家の描くプロセスそのものまでに至る試行錯誤の流れを感じることができるように配置されていた。動線として興味深い。

会期は今週末(7/31)まで。
http://klee.exhn.jp/

プロトタイピングとアジャイル開発

アジャイル開発とプロトタイピング、割と近い文脈ででてくる用語なのだけれど、それぞれ別のものなんじゃないかと考えている。別、というよりもフェイズが違うというべきか。アジャイル開発はあくまで開発であり、プロダクションレベルのものをよりスマートに作り上げるための手法であるのに対し、プロトタイピングはアイデアを出す、またはぼんやりとしたアイデアの形を作るためのものなのだと思う。(ちなみにアジャイルといってもアジャイルUCDという用語もあるけれど、とりあえずここで触れているアジャイルはアジャイル・デベロップメントのことです)

先日のPivotal LabsのIan McFarlandさんと伊藤 穰一の対談(詳しくは安藤日記へ)にてIanが「プロトタイプのコードは絶対に捨てる」と言ったのを聞いた時はハッとさせられる思いだった。曰く、プロトタイプはユーザーストーリーを決めるものでコードはその発展系としてプロダクションに進んではいけない。ユーザーストーリーが決まったらテストを書いてTDD(テスト駆動開発)で作り直す、のだそうだ。確かに納得である。

burndown-chart
Photo by kakutani
バーンダウンチャート: そのチームがどのくらいの速度でストリーポイント(工数見積もりの単位)をこなしているかを可視化するチャート

アジャイル開発のフェーズでは、ソフトウェアに限ったことかもしれないけれど、テスト駆動開発であることがすごく重要だと思っている。テストがあることで、今日やるべきことが決まる。なのでチームの状態が見えるようになる。チームのヴェロシティ(開発速度)を見る上では、一つの実装に区切りができないといけない。なので、ここまでできればこのユーザースートリーは完成、ということをコードレベルで先に定義してしまうことはとても有効なプラクティスだ。そして、結果的に、テストがあることで、その後に変更を加えても丈夫なコードになる。

Paper prototype
Photo by cesarastudillo
ペーパープロトタイプの例

逆にいうとアジャイル開発に入った時点では(それほど)ユーザー視点を持つ必要はなくて、あくまで既にイメージが共有されているユーザーストリーを効率的に消化することに注力することになる。プロトタイピングは、そのユーザーストリーをチームで共有するために作る。なので、捨てることが前提で素早く作ることが最も重要となる。多くの人が紙ではじめるのもそのためだ。もちろん、本物に近い動くプロトタイプが一番イメージがはっきりするし、インタラクションの気持ちよさなんかは動かしてみないと分らないところが多いので、実際にコーディングするのは大変よいことなのだけれど、それはクオリティは度外視したものとなりがちである(クオリティにとらわれるべきではない)。例えば、データベースに無駄なスキーマが増えたり、使われないアクションや、ネーミングとして適切でない変数が偏在することとなる。なので「プロトタイプのコードは絶対に捨てる」というモットーは大変いさぎよい。そこからツジツマを合わせつつプロダクションに持って行くよりも効率はよいのかもしれない。

[アジャイル開発のおすすめ本]